下瀬火薬
  1891年(明治24年)、海軍技師・下瀬雅允によって発明された新型火薬を「下瀬火薬」と呼びました。従来の砲弾と異なり、下瀬火薬は砲弾を3000以上の破片にして、あらゆる方向に同じ速さで飛んだため「付近のものは一物たりとも生存しえない」とされました。この弾丸に当たったロシアの軍艦は、「蜂の巣のようだった」といわれています。
また、下瀬火薬の気化ガスは高熱(3000度)であり、鋼鉄に塗ったペンキはそのガスによって引火して火事を起こすというもので、下瀬火薬が敵艦に当たると、敵は1人も甲板に上れなかったと言われています。この火薬は製造設備ができず、日清戦争には間に合わなかったのですが、日露戦争でその威力を発揮しました。これに対してロシアの海軍の火薬は、旧来の火薬でありました。もちろん、それでも充分な殺傷能力はあり、また、喫水線のあたりや船の火薬庫に当たれば、沈めることもできましたが、日本の軍艦は一隻も沈みませんでした。
なぜなら、当日の天候は「天気晴朗ナレドモ波高シ」でしたから、揺れも激しかったのです。揺れる戦艦から狙って、敵艦の火薬庫や喫水線のあたりに弾が命中するということは、難事でした。これに対してロシアは、日本の砲弾が当たるたびに猛烈な爆発と火災が起きたため近寄ることすらでず、たちまち戦闘力が奪われました。少々狙いが外れても、敵に被害を与えられるのだから、日本側は圧倒的に有利だったのです。
さらにロシアの火薬は黒色火薬を使用していたので、数発砲弾を発射すると黒煙で視界が遮られ、砲撃を中断しなければならなかったのです。これに対して日本側は連続砲撃が出来ました。こうなると開戦前の猛訓練の成果も重なり、次々とバルチック艦隊を沈めることができたのです。
 
     
伊集院信管
  ロシアの砲弾は「信管が悪いため不発弾が多いのではないか」ともいわれています。信管は砲弾の中の火薬を実際に爆発させる装置ですが、明治25年に完成した下瀬火薬が27年の日清戦争で使用されなかったのは、この火薬に合う信管がなかったからです。ところが明治33年に海軍の軍人だった伊集院五郎が「安全でしかも感度の鋭敏」という世界的に性能が優れた「伊集院信管」を発明、下瀬火薬とセットになって日本海軍の砲弾の威力を高めました。伊集院信管は弾が「魚雷式」になっていたことを、ロシア側の文献は敗因のひとつに挙げています。
     
酒税
  近代の酒税制度は、明治政府が1875年(明治8年)に創設した「酒類税」が始まりです。当時の国税収入は「地税(地租)」が全体の90%を占め、酒類税の比率は当初、数パーセントの状態が続きました。ところが、日露戦争中に戦費が不足。戦費を調達するために、酒税を大幅に上げました。これが「酒で日露戦争に勝った」といわれる所以です。実際、日露戦争時には国家税収の35%を酒税が占めていました。
日露戦争以後には、酒の密造を防止するため酒母や麹の取締法が出されました。(一般にいう、どぶろく禁止法)以後、酒造家保護の国策が採られ、「酒税」という国家財源を確保するのが主な目的でした。酒税は、日露戦争も国税収入の2−3割を占め、所得税が常に首位となる昭和10年まで続きました。現行の酒税制度は、昭和62年度に基本的な枠組みが出来上がりました。近年の酒税収入は年間2兆円前後。税収全体の3%を占めるにとどまっており、税目別では所得税、法人税、消費税、揮発油税に続く5番目の地位となっています。

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