酒造りの工程のうち、仕込みの準備段階として精米があります。灘は、昔から酒造りへの先進技術の導入には積極的な地域ですが、精米もまたしかりでありました。酒造りに水車精米の導入を先駈けたのは灘酒です。
灘酒は今津郷、西宮郷、東郷、中郷、西郷の灘五郷で、徳川10代将軍・家治の明和の頃(1764〜72年)に、六甲連山から流れ下る夙川、芦屋川、住吉川、右屋川、都賀川、生田川などの急流を活用し、水車による酒米の搗精を行う技術革新が行われていました。

他の地方がまだ足踏み式の精米機であったのに対して灘では水車精米にいち早く切り替え、良い酒を造ったのです。足踏み式精米機とは、杵・臼を使って足で踏みつける足踏精米機で、玄米を足踏み式の臼でひいて精米するので、非常な労力と時間が費やされ、処理量も限られていました。
灘酒は、水車精米を導入することによって大量処理を可能とするだけでなく高精白が可能となり、酒質が飛躍的に向上しました。
一方、江戸初期から中期の日本酒をリードしていた伊丹酒は、米抱き職人による「足踏み精米」でした。伊丹・池田・西宮・今津においても精米は人力に依存していました。 
足踏み精米では、1日1人4臼〜5臼 (1臼=1斗3升5合)で、1日に5〜6石の米を精米していました。精白度も足踏精米がせいぜい8分搗き(精米歩合92%)でした。

     
  これに村して、水車による精米は臼1本で1日4斗を精白し、1つの水車に40本の臼がついていれば、水車1台で1日に16石の精米が可能であり、精白度も、ふつうで1割5分搗き(85%)、幕末期には二割搗きから二割五分搗き(75〜80%)が可能となりました。(明治時代には、砥石を混ぜることによって水車精米でも、70%以上の精米歩合も可能になったようです)
灘の水車精米の優位は明白であり、その酒を江戸に出したところ、淡麗な味が大評判をとなり、灘を一躍日本の名醸地と押し上げました。
     
 図:北斎画 隠田の水車
 
水車精米場は、明治以降も増え続けましたが、既に明治中期には動力精米機が開発されました。1860年には削って精米する研削式の起源ともいえる英国・ダグラス&グラント式精米機が開発され、明治29年(1896)には佐竹製作所が日本発の動力精米機を開発。翌年には米同士の摩擦で精米する摩擦式の精米機である米国・エンゲルバーグ式精米機が開発され、明治36年(1903)に日本に輸入されました。
大正時代に入ると日本でも発電所が建設され、精米機も英国・ナショナル製の電力精米機が輸入された事を皮切りに、大正時代後期に水車精米業は廃れていきました。吉村家の吉村精米場も大正6年(1917)に酒造業に進出し、3年後の大正9年(1920)には、水車精米場を廃止しました。酒造業は現在、吉村酒造株式会社となり、吉村精米場は軍需産業、不動産業を経て現在は株式会社吉村経営アシストとなりました。

 
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